■第四話「清涼飲料水営業取締規則ー1900年(明治33年)公布される」 |
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我が国での清涼飲料水の製造・販売は明治の初期からで、その起源といわれるのはラムネである。その頃のラムネびんというのは舶来のもので、キュウリに似ているところから「キュウリびん」あるいは底の方が尖っていたので「トンゴびん」とよんだと伝えられている。びん栓はコルクを差し込み、針金で止めていた。キュウリびんが廃れて1887年(明治20年)頃から玉びんいわゆる玉ラムネびんが流行しだし、また、1890年(明治23年)頃、今日の「サイダー」と称するものが初めて市場に現われたという。当時は、清涼飲料水の製造を開始するのに地方長官(現都道府県知事)へ届け出る必要はない自由営業時代であった。 取締規則の発布をみる端緒になった要因の一つには、ラムネをはじめとする清涼飲料水業者が全国各地に続出し濫造されるようになると、これに伴って沈澱、にごり、異物混入などの製品事故がみられるようになったという。 「今日の清涼飲料水「サイダー」と称するものが初めて市場に現われたのは、明治23年頃であったと思う。その後この種の飲料製造業者がボツボツと現われるようになったが、これと同時にまた、沈澱、混濁というような不良品も少くなかった。しかし今から考えてみるとそれも無理からぬ話である。というのは当時の飲料水製造業者の多くは、これに関する根本的知識というようなものは殆んど皆無で、ただこうすればサイダーが出来るというような、簡単な頭で造っていたのである。このような現状から日清戦争前後の1894~95年(明治27-28年)頃から警察の取締りの眼が漸く厳しくなり、内務省はこれらの上良品を取締る必要が起ったとして清涼飲料水に対する取締規則の発布について急速に研究、検討されるようになったといわれている。 その結果として、内務省は1900年(明治33年)6月5日内務省令第30号をもって「清涼飲料水営業取締規則」を発布し清涼飲料水に関する規制がここに始まったのである。 営業取締規則の全文は別項のとおりであるが主な点は、この取締規則のため業界の先駆者は如何に悩んだかは想像に難くないが、このことによって清涼飲料水製造業が他の飲食料製造業に比べて製造設備の近代化、製造方法の安全化、衛生・品質管理の確立等に先進してきたかがわかると思う。 業者数についての記録としては、1909年(明治42年)内務省衛生局の発表によれば企業数2,523、生産量2億500万本(69,700kl)となっている。取締規則の施行された明治33年当時の企業数約2,000、生産量1億本(34,000kl)程度あったと推定されている。 なお、終戦直後の1945年(昭和20年)は全国で戦時中に2,681工場から企業整備で640工場残ったうち焼失をまぬがれたのは468工場で、生産量はラムネ498kl(小玉ラムネ126ml換算39,524千本)、サイダー類2,138kl(340ml換算62,882千本)フルーツシロップ、果実水類140klという状態からの再出発であった。戦後、砂糖の輪入が途絶えていたため代用甘味にたよらなければ、清涼飲料水製造業を復興し製品の製造をすることはできなかった。内務省令が1946年(昭和21年)5月サッカリンが使用できるよう改正され商工省より1,000kgのサッカリンの配給がなされ、いわゆる戦後の清涼飲料水製造業の復興がはじまったのである。ついで同年7月ズルチンの使用が許可された。 1947年(昭和22年)12月法律第233号をもって食品衛生法の制定に伴い、1900年(明治33年)6月5日内務省令第30号により制定された「清涼飲料水営業取締規則」は「食品、添加物、器具及び容器包装の規格及び基準(昭和23年7月厚生省告示第54号)」に含められ廃止されて、内務省の警察官から厚生省の衛生官に行政が移り、従来の取締から衛生上の危害の発生を防止し公衆衛生に主眼がおかれるようになったのである。 当時の科学技術の進歩はめざましく、清涼飲料水に関しても製造技術の高度化、複雑化、さらに消費者し好の変化に伴い低炭酸飲料等製品の多様化が急速に進展し、旧規格基準では必ずしもこれら技術の進歩に即応しているとは言い難い状況にあったので、実態を踏まえ、これらに対応した科学的知見に基づいて、ほほ全面的に調査検討が行われ清涼飲料水の規格基準及び容器包装の規格が整備されたのである。
清涼飲料水営業取締規則(明治33年6月5日内務省令第30号)出典:清飲通信(平成14年2月15日号に掲載) 執筆者:堀部 義巳氏(一般財団法人日本清涼飲料検査協会相談役)
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