■第九話「サイダー、シトロン、レモン、ライム等の透明炭酸飲料」

 サイダーと称する炭酸飲料が、わが国で製造販売されるようになったのは、英国人ノースレー氏であった。同氏は1863年(文久3年)に伊豆下田へ着き、やがて横浜・本町通り61番館で「ノース・アンド・レー商会《と称する薬種商を開業し、1868年(明治元年)に同商会の裏手に工場を建設し、ラムネ、ジンジャーエール、レモネード、ミネラルトニック、シャンペンサイダー等13種類ほど製造し、これらの製品は殆んど在留の外国人、外国から来航する艦船の人々で、日本人では上流階級や地位のある人以外は飲用するものはいなかった。

 容器はキウリびんを利用して詰めていたという。当時、同商会で製造していた飲料水中、一番日本人の味覚に適していたものはシャンペンサイダーであると考えて製造販売を行っている。ノース・アンド・レー商会は清涼飲料製造用の機械、びん、香料、酸味料等の原材料の輸入商として、わが国の清涼飲料製造業の草創期に大きな役割を果している。

 当時のサイダー原料は、パインアップルにリンゴの香料を混合したもので、同商会は米国や英国からパインアップルとアップル・サイダーの香料を輸入しブレンドしてシャンペンサイダーという複合香料として全国的商品として消費者に普及するために飲料業者に拡販したのである。

 ところでサイダー(英語Cider)の語源はシードル(Cidre、フランス語でアップル(リンゴ)果汁の発酵洒)からでた現代語といわれている。シャンペンサイダーは、シャンパンの風味とシードル(リンゴ酒)の風味をミックスしたものという意味であるという。

 サイダーを日本人によって1875年(明治8年)に横浜で初めて製造され「日の出鶴《という清酒のようなブランドで売り出された。これが秋元己之助氏により1889年(明治22年)金線サイダーと改称され、さらに1899年(明治32年)に王冠を使用し製造された金線サイダーの名を永く伝えている。1900年(明治33年)には王冠が輸入されビール会社がこれを使ってサイダーの製造をはじめ玉ラムネを上回る人気をえたといわれる。

 三ツ矢サイダー(現アサヒ飲料(株))は1905年(明治38年)「天然ガスヲ含メル東洋唯一ノ純良鉱泉ナリ」とラベルに記載した三ツ矢平野水(現兵庫県川西市にあった平野工場)として1884年(明治17年)発売したのがルーツという。1907年(明治40年)に帝国鉱泉(株)がサイダーフレーバーエッセンスを輸入し平野シャンペンサイダーを発売、これが現在の三ツ矢サイダーへとつながっている。1972年(昭和47年)プリントびんに切替えている。

 リボンシトロン(現サッポロビール飲料(株))は1908年(明治41年)当時の大日本麦酒(株)は、欧米のあるビール会社が清涼飲料水を兼業していることから飲料水分野への進出を検討した。

 当時、わが国ではサイダー、ラムネ等のソーダ水が主流で殆んどがリモナーデであった。リモナーデはヨーロッパで健康な人ばかりでなく病人にも良いとされ広く愛飲されていた。同社は健康増進の観点に立ち差別化を意図して「シトロン」と命名し1909年(明治42年)保土ヶ谷工場で製造し販売した。発売時はシトロンが商品吊であったが、類似品が続出したため1915年(大正4年)から「リボンシトロン」に改めた。1911年(明治44年)にはナポリンを発売している。1968年(昭和43年)にナポリン、1970年(昭和45年)にリボンシトロンをプリントびんを採用している。

 キリンレモン(現キリンビバレッジ(株))は1928年(昭和3年)従来の着色されたサイダーが多い中で最高級品たらしめんために中味は無着色とし無色透明びんによるキリンレモンを1928年(昭和3年)横浜工場で製造し販売を開始している。引き続いてキリンサイダー、キリンシトロンを発売したが、キリンレモンが一番好評であったので、後にはキリンレモン中心に販売されている。1958年(昭和33年)にはプリントびんに切り替えている。

 ビール会社によるサイダー、シトロン、レモンの製造販売によりラムネは大衆品として、サイダーは高級品という区分化がはじまったのである。1915年(大正4年)頃、国内で王冠が生産されるようになり、全国各地でラムネに加えてサイダー、ソーダ水を製造する会社が増え一段と多くの人に飲まれるようになった。

 1982年(昭和15年)の戦時中には、清涼飲料水も統制価格となり、原料の入手難から生産量が減少したのは当然の成行きであった。戦後、大手、中小企業共に人工甘味料だけの清涼飲料水が製造された時期があったが、砂糖の配給が開始され、サッカリンNa、ズルチン、チクロと砂糖の併用品が出回るようになった。1950年(昭和25年)価格統制が廃止され、1952年(昭和27年)には砂糖の統制も撤廃されたのでビール会社、一部中小で砂糖だけの製品が復活した。しかし、砂糖と人工甘味料の併用品に対して価格が高いこともあって全面的な切替えは困難であった。その後1967年(昭和42年)ヅルチンの使用禁止、1969年(昭和44年)米国でチクロは発がん性を有する恐れがあると発表され、一般食品に使用することが禁止された。チクロの使用禁止に伴って清涼飲料業界も全面的に砂糖使用に転換を図ったのである。そして1980年(昭和55年)に新しい天然甘味料として果糖ぶどう糖液糖が登場し砂糖との併用時代に入って現在に至っている。

 日本の透明炭酸飲料に外国のブランドが参入したのは、米国におけるレモン・ライム飲料のトップブランドであるセブンアップ(現在サントリー社販売)が1958年(昭和33年)に製造されている。1966年(昭和41年)には当時のペプシコーラグループがミリンダレモンライムを発売している。さらに日本コカ・コーラ(株)からスプライトが1970年(昭和45年)に沖縄コカ・コーラボトリング(株)から発売、翌年10月には他のコカ・コーラボトラー各社で製造販売が行われている。スプライトは1960年(昭和35年)米国で誕生した。語源的には英語のSpirit(元気の意)とSprite(妖清)からきている。前者は、スプライトの炭酸ガスがパチパチと威勢よくはじける様子を表現し、後者は製品のさわやかな透明感を強調しているといわれている。

 サイダー、シトロン、レモンの商品名に加え外国ブランド参入によって無色透明、クールでキックな炭酸飲料としてアウトドア・ドリンクとして缶・小型PETボトルが、また、ホーム向けは大型PETボトルも登場し広く飲まれている。一時期、中小企業のサイダーは1,000社を起えるほどであったが、設備、新容器への対応、地域商品としての特性を生かすことができず殆んど見かけることがなくなったのは残念でならない。あの340mlのリターナブルびんは大手企業でも廃止される方向にある。なお、生産数量の状況、清涼飲料水税→物品税等については、またの機会に書きたい。

 参考資料:業界回顧史(1935年「昭和10年《)東京清涼水同業組合
       :アサヒビール(株)社史、サッポロビール(株)社史、麒麟麦洒(株)社史
 出典:清飲通信(平成14年5月15日号に掲載)
 執筆者:堀部 義巳氏(一般財団法人日本清涼飲料検査協会相談役)


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