■第十二話「コーラ飲料の沿革」 |
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わが国でのコーラ飲料の生産が始められたのは、戦後の1952年(昭和27年)にウインコーラ、1953年(昭和28年)にミッションコーラが販売されるようになり、中小企業の一部でも各地でコーラ飲料の製造販売が始められるようになった。1953年(昭和28年)~1956年(昭和31年)の生産量は次のとおりとなっている。
当時は、ラムネ、サイダーが炭酸飲料の主力で約90%のシェアをもっていたが、1957年(昭和32年)に、コカ・コーラ、ペプシコーラに対するコーラ飲料用原液輸入の外貨80,000ドルの割当により、生産販売されるまでの生産状況である。
わが国で、外国ブランドのコーラ飲料が本格的に製造販売されるようになったのは1961年(昭和36年)10月1日から完全に自由化されてからである。しかし、輸入品の販売は1919年(大正8年)のことで食料品の輸入を行っていた(株)明治屋によってコカ・コーラが輸入販売されたのが最初とされている。「コカ・コーラ・タンサン」衛生的にも嗜好的にももっとも進歩した世界的飲料水」という初輸入の広告宣伝をPR誌「嗜好」に掲載しているが、コカ・コーラというブランドが活字になった最初ではないかといわれる。
1914年(大正3年)詩人高村光太郎が有名な詩集「道程」のなかで「コカコオラ」とうたい、けっこう東京のハイカラな生活をしていたことがわかる。さらに1925年(大正14年)5月1日、作家、芥川龍之介が文芸春秋の佐々木茂索氏にあてた修繕寺からの書簡にも、ウー口ン茶やチョコレートとならんで「コカコラ」の名称で書かれている。このように戦前にも一部のインテリ層や洋食店、高級レストランなどには人気がありこんにち風の「カッコいい飲みもの」だったと思われる。しかし、当時はラムネは大衆品としてサイダーは高級品として飲用されていた日本人の好みには、まだまだ珍しい舶来の飲料というだけで、一般には評判になるほどの人気が出ず、大衆化するに至らず店頭から姿を消し、さらに戦争の時期もあり外国製品及び原料の輸入のストップなどが大きな要因であろう。
そのコーラ飲料が再び日本にやってきたのは、終戦の1945年(昭和20年)10月アメリカ軍の兵隊と共に上陸してきたのである。しかし軍需品並みの扱いで米軍基地内で製造されPXで販売されていたという。当時、コカ・コーラ、ペプシコーラ等の外国系コーラといえば知っている者は直ちにアメリカ兵が愛好していたコーヒー風の清涼飲料を想い出すだろうが、しかし、駐留軍関係に無縁な一般の人々は、名前だけは知っていてもどんな飲み物かはいっこうに見当がつかなかったに違いない。
1951(昭和26年)には講和条約が締結されたが、その頃より酒類食品卸問屋の小網商店の高梨仁三郎社長が、当時、既に世界各国に進出していたアメリカの清涼飲料のコカ・コーラを日本で製造販売の計画をもって、1953年(昭和28年)5月にコカ・コーラの原液輸入申請書が提出されたことから、国内の飲料業界に大きな波紋を呼んだ。当時は外貨事情も極度に悪化していたし、日本の清涼飲料業界もようやく本格的に国産化されてきた、うんしゅうみかんのジュースの振興に懸命になっていた矢先でもあったりして、この輸入計画は第16国会衆議院農林委員会において審議された結果、国内清涼飲料及び果汁産業に影響を与えるということで流されてしまった。
しかし、1956年(昭和31年)に再度、輸入許可申請が提出され、政治的、行政的にその可否が検討され、結局、同年11月1日、在留外国人、観光外国人を対象として無酒精飲料の原液として1957年(昭和32年)度分として年間80,000ドル(190m140万c/sといわれる)がコカ・コーラ、同時に申請されていたペプシコーラに40,000ドルづつ外貨の割当てが行われるとともに、特定需要(外国人)以外の流出を防止するため、一定の条件が付されてコカ・コーラ、ペプシコーラが日本での製造販売の業務開始となったのである。
その当時の条件の主なものは次のとおりであった。
(1)販売先は、外国人関係ホテル、在留外国人を対象として販売するゴルフ場、外国人専門の学校及び病院を対象として販売する場所、主として船舶、航空を対象として販売する場所。全国で112ヶ所が指定された。その後、1958年(昭和33年)2月13日、食糧庁長官通達「コーラ飲料の販売個所追加承認について」により、販売箇所も拡大され全国で986ヶ所に増加している。1957年(昭和32年)1月には、カナダドライが国際飲料(株)から発売されている。1957年(昭和32年)~1959年(昭和34年)の生産量は次のとおりである。
この3年間は、一定の条件下での製造販売なので炭酸飲料、果実飲料業界にほとんど影響を与えていないし、外貨割当は両社共に消化されていないと考えられる。
コーラ原液の一部を自動割当制に移行
コカ・コーラ、ペプシコーラ両社は、コーラ原液を輸入しなくても、コーラ飲料用調合香料を使用することによってコーラ飲料が製造できる段取りになったために、食糧庁にコーラ飲料用調合香料の自動割当制を陳情し1960年(昭和35年)10月1日、食糧庁長官名をもってコーラ飲料用調合香料を自動割当制に移行する通達が出され、通産省は調合香料を輸入外貨資金の自動割当品目に指定することを公示した。
この措置は、4半期ごとに割り当てられていたコーラ原液の外貨は、原液の原料となる調合香料として輸入できることになり、この調合香料に他の副原料を加えて原液を日本で製造することができるようになった。また、販売制限も緩和され、販売先は農林省の承認なしで販売できる。過大な宣伝、広告を行わない、販売価格(1本35円)を不当に値下げしない等の行政指導が行われて条件は緩和された。同年9月にはローヤルクラウンコーラが日本に進出している。
コーラ飲料用調合香料の自動承認制に移行
貿易の自由化の進行に伴なって1961年(昭和36年)10月7日からコーラ飲料用調合香料は輸入自動承認制品目に組み入れられ、名実ともに完全な自由化品目になったのである。
輸入の自由化に伴って、コーラ原液の輸入の外貨割当に際して厳しく制限されていた販売箇所や宣伝、広告の制限も撤廃されたので、コカ・コーラ、ペプシコーラ両社は、それぞれフランチャイズ方式のもとに全国にボトラーの展開を進めた。コカ・コーラ社は1963年(昭和38年)に、ペプシコーラ社は1968年(昭和43年)に全国展開を完了している。
1961年(昭和36年)10月コーラ飲料用調合香料の自由化により61年にはサッポロビール(株)よりリボンコーラが、他の品種の外国ブランドの進出も活発となり1962年(昭和37年)にシュウェップス、1963年(昭和38年)セブンアップ、バブルアップ、1964年(昭和39年)にはサンキスト、1967年(昭和42年)グッヅルートビア、シナルコなどが販売を行っているが、現在、販売中止されているブランドもある。なお、1960年(昭和35年)及び1961年(昭和36年)の生産量は次のとおりである。
自動承認制に移行した1961年(昭和36年)にはコーラ飲料のシェアは5.8%であったが、1965(昭和40年)には140,000kl、シェアは29.5%と大幅に伸長している。
折からの高度成長の波に乗り、ルートセールスと呼ぶ直接販売方法を採用し、組織的なP・Rの推進、宣伝、広告マーケテイング、生産設備の設計、新製品の開発・研究、製造技術及び、品質管理の指導等で、ボトラー各社のコーラ飲料の販売は飛躍的な増加を続けてきた。コーラ飲料の最高の生産量だったのは1979年(昭和54年)で1,166千klで炭酸飲料に占めるシェアは34.7%であった。
1998年(平成10年)1月よりサントリ(株)が、新たに日本でのペプシブランド商品のマスターフランチャイズ権(マーケテイング及び製造販売総代理権)を同社が取得し、サントリーフーズ(株)を通じペプシコーラ、セブンアップ等の販売を行っている。
最近3年間におけるコーラ飲料の生産量は次のとおりであり、茶系飲料等の伸長もあって横ばい状態である。
なお、2001年(平成13年)におけるコーラ飲料の容器別生産量とシェアは、次のとおりである。
参考資料:清飲会報、清涼飲料関係統計資料
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